その軍勢の数は計り知れないものになるであろうと、濃姫は俄に不安を覚えたのである。
「未だはっきりとした数までは分かっておらぬが………知らせによれば、一万、もしくは二万を越える軍勢であろうと」
「二万!?」
驚愕の数字を聞き、濃姫はただただ驚いていた。
三保野も狼狽えた様子を見せながら、濃姫と信長の顔に交互に目をやっている。
彼女たちの素直な反応を見、信長も悩ましげな表情で首肯した。眼霜推薦
「ああ、二万だ。……今、我らが集められる兵の数はせいぜい二、三千といったところ。それを考えれば、圧倒的な違いよのう」
二万の今川軍に対して、織田軍は僅か数千。
その現実を突き付けられた姫は
「…僅か三千の軍勢で、今川に勝つことなど…出来るのでございましょうか?」
震えの帯びる声で、最も重要な点を率直に訊ねた。
「分からぬ」
「……」
「分からぬが───それでも普通に考えれば、無理な話であろう。
故に儂も、此度ばかりは死を覚悟せねばと思うておる」
「そ、そのような不吉なことをっ」
「致し方なかろう。軍勢の数もさることながら、相手は強敵今川義元じゃ。誰であろうとも一度は死を覚悟するというもの」
いつにない弱気な発言を聞き、濃姫は思わず懸念顔を夫に向けた。
何という時に今川が侵攻して来たものだろうか。
せっかく…、せっかく待望の御子を授かったというのに、まさかその父たる信長が死地へ赴こうなどとは──。
濃姫は驚きと絶望から、思わず両耳を手で塞ぎたい衝動にかられた。
しかし信長は、ふっとその満面に、はにかむような微笑を湛えると
「じゃと言うてもな、お濃。儂は戦勝を諦めた訳ではないぞ」
「─?」
「最後の最後まで今川勢とやり合い、何としても義元の御首を斬り落とす。我が織田軍の手でな」
力強い口調でそう言った。
「亡き道三殿とて、一万からなる義龍の軍勢を相手に、僅か数千の手勢で挑まれたのじゃ。
その婿たる儂が、兵の数に脅え、刀も交えずして敵に背中を向けるような真似は出来ぬ」
「しかしながら、父上様は義兄上様との戦に敗れておりまする。もしも殿が、その二の舞になるようなことにでもなったら…」
「案ずるな。今の儂とあの折の道三殿とでは、立場も置かれている状況も違う。無用な懸念じゃ」
「……」
「野戦になるか、はたまた籠城になるかはまだ分からぬが、これまでにない大きな戦になろう。
故に濃、そなたも覚悟を致しておくのだ。場合によっては、この城に乗り込まれ、血の雨が降るやも知れぬ故」
信長の言葉を、姫はその白い細面(ほそおもて)を強張らせながら聞いていたが
「ご安心下さいませ。このような折に備えて、私も日々薙刀の稽古に勤(いそ)しんで参ったのです。
この城に血の雨が降るというのならば、私はそれが敵勢の血となるよう、心して勤める所存にございます」
ややあって、刺し通すような鋭さで言った。
信長は緩(ゆる)やかに口角をつり上げると
「よう言うてくれた。それでこそ道三殿の娘じゃ」
我が意を察したりと、満足そうに頷いた。
「それと分かっているとは思うが、事情が事情故、儂も暫くは奥には参れぬ。母上やお市のことはそなたに任せたぞ」
「はい。心得ましてございます」
「今川との戦に集中せねばならぬ大事の時じゃ。決して余計な揉め事などは起さぬよう。良いな?」
「……は…はい…」
濃姫の面上に軽い動揺が走った。
男児ならば勿論、例え女児であっても、信長の為に健康な吾子を産んであげたい──。
女として、また妻として、濃姫は心からそう思っているのであった。
西から射す強い日没の光を受けて、奥御殿の廊下や縁は、鮮やかな橙色(ときいろ)一色に彩られていた。
その中を、御用の為に表御殿に出向いていた老女・千代山が、腰元を一人伴ってしずしずと歩いてゆく。
すると
「───では、くれぐれもお身体をお大事になされませ」保濕精華推薦
「有り難う存じまする」
「何かありましたら、すぐにお呼び下さりませ。駆け付けます故」
「お気遣い痛み入ります。 お菜津殿、医師殿を表までお送り申せ」
「承知致しました」
濃姫の寝室から出て来る、医師と三保野、そしてお菜津の姿がその目に映った。
お菜津は周囲を気にしながら、「…こちらへ」と、何やらこそこそした様子で医師を誘(いざな)ってゆく。
千代山は反射的に、近くの太い柱に身を隠すと、遠ざかっていく彼らを細い目で見つめた。
『 かような時分に何故に薬師が…。お方様がご体調を崩されたという知らせなど、何も受けてはいないが 』
正室たる濃姫の部屋に医師が呼ばれたとあれば、奥向きにとっては一大事。
にも関わらず奥の御用を取り締まる自分に何の知らせも来ていないとは…。
これは妙だと思い、千代山は怪訝そうに眉を歪めた。
そしてサッと踵を返して、背後の腰元に目を向けると
「その方。悪いが、今お方様の部屋から出ていったあの医師の後を付け、
どのような御用でお方様の元に参られたのか、調べてみてくれぬか?」
「…え。な、なれど…」
「ぼやぼや致すな。行くのじゃ!」
「は、はいっ」
千代山に頭を垂れ、腰元は慌てて医師の後を追いかけていった。
───場は戻り、診察を終え、医師を送り出した濃姫の寝室では、
乱れた姫の着物の裾や襟元を直してやりながら、三保野が安堵の微笑を漏らしていた。
「……病やら難産やらと、色々と懸念は多ございますが、一先ず私は安心致しました」
「安心とな?」
「はい。とにもかくにも、姫様のご懐妊は紛れもない事実だったのですから。
これでもう、大方様や千代山様らに、御子のことでうるそう言われる心配もなくなりまするな」
「さぁ、どうであろう? 小言を申すのが趣味のような方々故、懐妊したら懐妊したで、また別の小言を言い出すのではないか?」
「あ、それは確かに」
濃姫と三保野は朗らかに微笑(わら)った。
「なれど、義母上様などはまだ良い方じゃ。私が気がかりなのは、殿の方です」
「信長様?」
「無事に産まれるかも分からぬ、ましてや安定期を待たずに流れる恐れのある此度の懐妊を……殿は喜んで下さるであろうか?」
姫の弱気な言葉を聞き、三保野は驚いたように目を白黒させると
「何を申されるのです!当たり前ではございませぬか」
声を上げながら、荒々しく主人の目前に控えた。
「何度も申し上げているように、姫様との御子を誰よりも望んでおられたのは殿にございます。喜んで下さらぬはすがございませぬ」
「…そうじゃな…。私もそう信じたい」
「もしも不平や不満を言おうものならば、この三保野が姫様に代わってドンと殿に抗議致します故、ご心配には及びませぬ」
私にお任せ下されと、何とも頼もしげに言う三保野を見て、濃姫は何やら救われる思いがしていた。
一方、濃姫の御座所の寝室では
「さぁ、どうぞお気持ちをお楽になさって下さいませ。すぐに済みまする故」
「………」
「何卒 暫くのご辛抱を」
今まさに、お菜津が密かに手配した医師によって、濃姫の懐妊の有無を明らかにする診察が行われていた。
姫が横たわる褥(しとね)の周りには目隠し代わりの几帳が置かれ、侍女たちはそれを、次の間から心配そうな面持ちで見つめている。
特に三保野などは、火が出るかと思われるほど激しく両手を擦り合わせながら
「どうか…姫様に吾子を……姫様に吾子を…」botox香港
と念仏のように呟きながら、必死の形相で祈りを捧げていた。
暫くして、スッと几帳が横にずれ、医師が顔を出すと
「終わりましたか!? それで姫様は!姫様は如何(いか)に!お見立ての程は!?」
三保野は医師に近寄りながら、興奮気味に訊ねた。
すると医師は生真面目な表情で、次の間の侍女たちに軽く目をやると
「申し訳ありませぬが、大切なお話をせねばなりませぬ故、他のお付きの方々には一旦お下がり願いたいのですが、よろしゅうございますか?」
眉一つ動かさず、三保野に告げた。
「…え…ええ。それは勿論。 皆々、直ちに下がるのじゃ!」
三保野が命じると、侍女は「そんな…」「ご懐妊は…」「お見立ては…」と、
不服そうに小言を漏らしながら、渋々といった感じに次の間から出て行った。
侍女たちがいなくなると、三保野は慌てて周りの几帳を四隅に片付け、
褥からゆっくりと上半身を起こしてゆく濃姫の傍らに、居住まいを正して控えた。
「……それで、姫様の…、ご診察の結果は?」
三保野は医師と向き合い、恐る恐る訊ねた。
医師は目の前の畳の上に、双の手を静かにつかえると
「おめでとうございまする──。ご懐妊になされて、三月が経っているものと思われまする」
俄に明るい声で告げた。
濃姫は感動と驚きに目を見張り、三保野はその満面を笑い皺でいっぱいにする。
「ま、まことにございましょうな!?姫様は間違いのう、ご懐妊を!?」
「違(たが)いございませぬ。御慶事、心よりお祝いを申し上げまする」
医師が端然と頭を下げると、三保野は感動に身を震わせ
「姫様!わ、私、何と申し上げたら良いのやら──」
「三保野…」
「まことに、まことにおめでとう存じまする! このような嬉しきこと、私、この尾張に来て初めてでございます」
とびきりの笑顔で、姫の懐妊を祝福した。
濃姫も幸福そうな表情を浮かべながら、自身の腹を優しく撫でた。
『 ようやっと、ようやっとここに殿の御子が──。突として夢が現(うつつ)になるとは、まことに信じられぬ 』
喜びに胸を高鳴らせながら、濃姫はその端麗な面差しに溢れんばかりの笑みを湛えた。
「ただし、御子が恙無(つつがな)くお産まれになることは、極めて困難やも知れませぬが」
ふいに医師の口から漏れた言葉が、姫の顔から瞬時に笑顔を奪い取った。
三保野も目を瞬かせながら「え?」と、苦しそうな表情を浮かべる医師を見やった。
「困難とは──、それはいったいどういう意味にございますか?」
「…それは…」
言い辛そうに口をつぐむ医師を見て、濃姫は俄に顔を強張らせると
「教えてたもれ。…もしや私の身体に、何か障りでもあるのですか…?」
やや動揺気味に声を震わせながら訊ねた。
仕事が終わったあと、ひゐろは口入れ屋に立ち寄った。
「今朝、話があると言っていたが、今なら話ができるよ」
と事務員が切り出した。
「……ごめんなさい!今度は、私の都合がつかなくなってしまいました。また後日!」
そう言って、ひゐろは口入れ屋を駆け出した。
肌寒さを感じるようになった銀座の街。ひゐろは、時計台へ向かった。
いつも通り三重吉の車が停まっており、孟が待っている。
ひゐろは、変わらない日常を愛おしく感じていた。
「今日は、いつもより早くここに来てくれましたね」韓國衛衣
「先日は孟さんを、ずいぶん待たせてしまったので」
ひゐろは左手を孟に預け、車に乗り込んだ。
「そういえば、斎藤さんは元気にしていますか?」
「ああ元気だよ。彼はおもしろいことを言うんだよ。『帝大は、次男か三男しかいない』って。お前もそうだろって」
「どういうことなのでしょう?」
「長男は家長になるから、我々のように上京して大学にやってくる者はいないってことだ。確かに私も長男ではなく、兄貴がいる」
「なるほど。確かに長男が生家を出る可能性は、少ないのかもしれませんね」
「長男以外は、風来坊の傾向にあるんだろう」孟は、声をあげて笑った。
「優秀な学生が全国から集まってくるわけですから、東京市は幸せな場所ですね」
ひゐろは、笑顔でそう返した。
御茶ノ水方面に車が進んで行くと、ひゐろが口を開いた。
「今日は、寄り道をしていきませんか。は紅葉がきれいなところが多いですし」
「紅葉の季節だからね。それじゃ、神田神社を散歩しようか」
「ええ。お願いいたします」
神田神社の近くに車を停め、二人は大鳥居の中をくぐった。
「甘酒屋があるわ!飲んでいい?」
「あぁ……私は運転をするので、遠慮しておくよ」
ひゐろはうなずいた。そして店員から甘酒を受け取り、掛茶屋で甘酒を飲みはじめた。
「少し寒くなったから、この温かさはありがたいわ」
そう言って、ひゐろは天を見上げた。
「……紅葉がきれいね。燃えているようだわ」
二人は紅葉を見つめながら、歩きはじめた。
「孟さん、先日はありがとう」
「先日……?」
「下駄を買ってくれた日のことです」
「あぁ……あれからあの下駄を履いているかい?」
「ええ。仕事中に履いています。お守り替わりです。履いていると孟さんが守ってくれそうで」「下駄に、もっと念を込めておけば良かったな」
ひゐろは思わず、笑ってしまった。
「あの日のことですが……お客様の予約がお昼過ぎで、しかも昼食が遅かったのです」
孟は、ひゐろの瞳を見つめてうなずいた。
「しかも食事した後に、腕を引っ張られて……」
「……それ以上言わなくてもいいよ。お互い楽しい話ではないし」
孟はひゐろの話を制した。
「……実は、オートガールを続けようか迷っているのです」
孟は驚いたように、ひゐろを見つめた。
「これまで仕事が好きだと言っていたのに?」
ひゐろはしばらく考えた後、
「この仕事のことは両親にも内緒にしていますし、お客さんに対しても警戒する必要があって……」
孟は黙って、ひゐろの話を聞いていた。
「先日私がひゐろさんに伝えたことを、気に病んでいるのではないですか。いつも違う男性が隣にいると」
「いえ、そんなことは……」
「私の元に走ってくる君を見て、僕は信用したいと思ったよ。だが全く心配していないと言ったら、それは嘘になる」
「その心配をさせたくないのです」「ただ私のために辞めるというのなら、もう一度考えたほうが良いと思う。仕事というのはあくまでも、自ら選んで責任を持つものだから」
「……」
「厳しいことを言うようだが、それが職業婦人の姿だと思う」
「ええ」
紅葉を見上げながら、孟は言った。
「もちろんひゐろさんの気持ちは、とてもうれしかったよ。私のことを慮ってくれたことが、伝わってきた。ただ私のために職業を変えるというのは、少し違う気がするよ。矛盾しているように感じるかい?」
「客と何かあったんでしょ。そういう顔をしているわ」
依子はそう言って笑った。
「依子さんは、お客様と揉めたことはないんですか?」
「日常茶飯事よ。人間が介在するだけの仕事で、食事を作ったり給仕をしたりしているわけではないから、逃げ場もない。それがこの仕事なのでね」
「夜遅くまで、隣に座ることはあるんですか?」
「もちろんよ。口入れ屋に帰ってきた後で、別の場所で待ち合わせをすることもあるわ。それも顧客をつけるための手段よ」顯赫植髮
「……それじゃ、先日麻布十番で出会ったあの男性も?」
「単刀直入に言ってくれるじゃないの。彼は、客の一人だったわ」
「だったということは、今はそうではないと」
「好きになっちゃったのよ、仕方がないじゃない。今はいっしょに暮らしているわ」
依子は髪につけたセルロイドの「最近のひゐろは、ちょっとおかしいとは思いませんか」
民子は玄関にいる三重吉をお見送りする際に、そう言った。
「昼間にいないことが多いのは気になるが……。まぁ若いから、遊びに出かけるのだろう」
三重吉は気にも留めない様子で、カンカン帽をかぶった。
「そうでしょうか。少しおかしな出来事が、続いている気がするんですけど……」
「孟くんがいるから、大丈夫だろう。夜はきちんと帰ってきているし」
「気のせいなら良いんですが……」
「出かけるぞ」
「行ってらっしゃいませ」
民子は頭を下げて、三重吉を送り出した。
一方ひゐろは、今後の身の振り方を相談しようと、早めに口入れ屋に行くことにした。
「…おはようございます。ちょっとお話したいことが…」
口入れ屋の事務員に、ひゐろはそう話しかけた。
「今日は忙しいから、後日にしてもらえないか。すでにお待ちのお客さんがいるから、そこに入ってくれ」
と事務員に言われる。
ひゐろは機を逸したと思ったが、とりあえずお客様の元に向かった。
そこには、一人の男が待っていた。
「はじめまして。関東日日新聞に勤めている者です。この先の京橋から、歩いてきました」「関東日日新聞!私、読んでいます。銀座近辺は、確かに新聞社や印刷会社が多いですね。もしや記者ですか?」
「いえ、を預かる伝書鳩係です。今日は、父の車を借りました。一人で乗るのもつまらないので、隣に座ってくれる方を探していました。よろしくお願いします」
「鳩といっしょに、仕事をしているんですね!いろいろとお話をお聞きしたいです。こちらこそ、よろしくお願いします」
ひゐろは早速、車に乗り込んだ。
「さて、どこへ行こうか。行きたいところは、ございますか」
「があるんだ」
「ぜひ、行ってみたいです」
「よし。そこにしよう」
伝書鳩係の男は、東銀座方面に車を走らせた。
「向こうから走ってくる車は、松下屋の車だな」
「よくわかりますね」
「最近は百貨店も、上客の送迎を行っているらしいよ」
「良いですね。きっとお客様は、喜んでくださるでしょう」
車は、新橋方面に向かった。
「最新情報を運んでくれる伝書鳩は、新聞社には欠かせないものですね」
ひゐろはそう話しかけた。「そうだよ。鳩の力を借りて、僕らははじめて速報を届けられる。いい仕事をしてくれるんだよ」
「現場が遠くても、鳩は新聞社に帰って来てくれるんですか?」
「あぁ。六十万尺くらい離れていても、ちゃんと帰ってくるよ」
「……六十万尺!すごいですね」
「しかも彼らは愚痴も言わず、安いメシで働いてくれる」
「本当に!」
二人は声を上げて笑った。
「鳩のつがいは素晴らしいんだよ。生涯変わらぬ相手を愛し続けるんだ。つがいになったら、決してよそ見はしない」
「うらやましい。それほど愛し合えたらいいですね。私もそのようでありたい……」
「……どうやら、お嬢さんは恋しているようだね」
ひゐろは、頬を染めた。
「そろそろ虎ノ門だ。その先にあるのが、お