「客と何かあったんでしょ。そういう顔をしているわ」
依子はそう言って笑った。
「依子さんは、お客様と揉めたことはないんですか?」
「日常茶飯事よ。人間が介在するだけの仕事で、食事を作ったり給仕をしたりしているわけではないから、逃げ場もない。それがこの仕事なのでね」
「夜遅くまで、隣に座ることはあるんですか?」
「もちろんよ。口入れ屋に帰ってきた後で、別の場所で待ち合わせをすることもあるわ。それも顧客をつけるための手段よ」顯赫植髮
「……それじゃ、先日麻布十番で出会ったあの男性も?」
「単刀直入に言ってくれるじゃないの。彼は、客の一人だったわ」
「だったということは、今はそうではないと」
「好きになっちゃったのよ、仕方がないじゃない。今はいっしょに暮らしているわ」
依子は髪につけたセルロイドの「最近のひゐろは、ちょっとおかしいとは思いませんか」
民子は玄関にいる三重吉をお見送りする際に、そう言った。
「昼間にいないことが多いのは気になるが……。まぁ若いから、遊びに出かけるのだろう」
三重吉は気にも留めない様子で、カンカン帽をかぶった。
「そうでしょうか。少しおかしな出来事が、続いている気がするんですけど……」
「孟くんがいるから、大丈夫だろう。夜はきちんと帰ってきているし」
「気のせいなら良いんですが……」
「出かけるぞ」
「行ってらっしゃいませ」
民子は頭を下げて、三重吉を送り出した。
一方ひゐろは、今後の身の振り方を相談しようと、早めに口入れ屋に行くことにした。
「…おはようございます。ちょっとお話したいことが…」
口入れ屋の事務員に、ひゐろはそう話しかけた。
「今日は忙しいから、後日にしてもらえないか。すでにお待ちのお客さんがいるから、そこに入ってくれ」
と事務員に言われる。
ひゐろは機を逸したと思ったが、とりあえずお客様の元に向かった。
そこには、一人の男が待っていた。
「はじめまして。関東日日新聞に勤めている者です。この先の京橋から、歩いてきました」「関東日日新聞!私、読んでいます。銀座近辺は、確かに新聞社や印刷会社が多いですね。もしや記者ですか?」
「いえ、を預かる伝書鳩係です。今日は、父の車を借りました。一人で乗るのもつまらないので、隣に座ってくれる方を探していました。よろしくお願いします」
「鳩といっしょに、仕事をしているんですね!いろいろとお話をお聞きしたいです。こちらこそ、よろしくお願いします」
ひゐろは早速、車に乗り込んだ。
「さて、どこへ行こうか。行きたいところは、ございますか」
「があるんだ」
「ぜひ、行ってみたいです」
「よし。そこにしよう」
伝書鳩係の男は、東銀座方面に車を走らせた。
「向こうから走ってくる車は、松下屋の車だな」
「よくわかりますね」
「最近は百貨店も、上客の送迎を行っているらしいよ」
「良いですね。きっとお客様は、喜んでくださるでしょう」
車は、新橋方面に向かった。
「最新情報を運んでくれる伝書鳩は、新聞社には欠かせないものですね」
ひゐろはそう話しかけた。「そうだよ。鳩の力を借りて、僕らははじめて速報を届けられる。いい仕事をしてくれるんだよ」
「現場が遠くても、鳩は新聞社に帰って来てくれるんですか?」
「あぁ。六十万尺くらい離れていても、ちゃんと帰ってくるよ」
「……六十万尺!すごいですね」
「しかも彼らは愚痴も言わず、安いメシで働いてくれる」
「本当に!」
二人は声を上げて笑った。
「鳩のつがいは素晴らしいんだよ。生涯変わらぬ相手を愛し続けるんだ。つがいになったら、決してよそ見はしない」
「うらやましい。それほど愛し合えたらいいですね。私もそのようでありたい……」
「……どうやら、お嬢さんは恋しているようだね」
ひゐろは、頬を染めた。
「そろそろ虎ノ門だ。その先にあるのが、お