仕事が終わったあと、ひゐろは口入れ屋に立ち寄った。
「今朝、話があると言っていたが、今なら話ができるよ」
と事務員が切り出した。
「……ごめんなさい!今度は、私の都合がつかなくなってしまいました。また後日!」
そう言って、ひゐろは口入れ屋を駆け出した。
肌寒さを感じるようになった銀座の街。ひゐろは、時計台へ向かった。
いつも通り三重吉の車が停まっており、孟が待っている。
ひゐろは、変わらない日常を愛おしく感じていた。
「今日は、いつもより早くここに来てくれましたね」韓國衛衣
「先日は孟さんを、ずいぶん待たせてしまったので」
ひゐろは左手を孟に預け、車に乗り込んだ。
「そういえば、斎藤さんは元気にしていますか?」
「ああ元気だよ。彼はおもしろいことを言うんだよ。『帝大は、次男か三男しかいない』って。お前もそうだろって」
「どういうことなのでしょう?」
「長男は家長になるから、我々のように上京して大学にやってくる者はいないってことだ。確かに私も長男ではなく、兄貴がいる」
「なるほど。確かに長男が生家を出る可能性は、少ないのかもしれませんね」
「長男以外は、風来坊の傾向にあるんだろう」孟は、声をあげて笑った。
「優秀な学生が全国から集まってくるわけですから、東京市は幸せな場所ですね」
ひゐろは、笑顔でそう返した。
御茶ノ水方面に車が進んで行くと、ひゐろが口を開いた。
「今日は、寄り道をしていきませんか。は紅葉がきれいなところが多いですし」
「紅葉の季節だからね。それじゃ、神田神社を散歩しようか」
「ええ。お願いいたします」
神田神社の近くに車を停め、二人は大鳥居の中をくぐった。
「甘酒屋があるわ!飲んでいい?」
「あぁ……私は運転をするので、遠慮しておくよ」
ひゐろはうなずいた。そして店員から甘酒を受け取り、掛茶屋で甘酒を飲みはじめた。
「少し寒くなったから、この温かさはありがたいわ」
そう言って、ひゐろは天を見上げた。
「……紅葉がきれいね。燃えているようだわ」
二人は紅葉を見つめながら、歩きはじめた。
「孟さん、先日はありがとう」
「先日……?」
「下駄を買ってくれた日のことです」
「あぁ……あれからあの下駄を履いているかい?」
「ええ。仕事中に履いています。お守り替わりです。履いていると孟さんが守ってくれそうで」「下駄に、もっと念を込めておけば良かったな」
ひゐろは思わず、笑ってしまった。
「あの日のことですが……お客様の予約がお昼過ぎで、しかも昼食が遅かったのです」
孟は、ひゐろの瞳を見つめてうなずいた。
「しかも食事した後に、腕を引っ張られて……」
「……それ以上言わなくてもいいよ。お互い楽しい話ではないし」
孟はひゐろの話を制した。
「……実は、オートガールを続けようか迷っているのです」
孟は驚いたように、ひゐろを見つめた。
「これまで仕事が好きだと言っていたのに?」
ひゐろはしばらく考えた後、
「この仕事のことは両親にも内緒にしていますし、お客さんに対しても警戒する必要があって……」
孟は黙って、ひゐろの話を聞いていた。
「先日私がひゐろさんに伝えたことを、気に病んでいるのではないですか。いつも違う男性が隣にいると」
「いえ、そんなことは……」
「私の元に走ってくる君を見て、僕は信用したいと思ったよ。だが全く心配していないと言ったら、それは嘘になる」
「その心配をさせたくないのです」「ただ私のために辞めるというのなら、もう一度考えたほうが良いと思う。仕事というのはあくまでも、自ら選んで責任を持つものだから」
「……」
「厳しいことを言うようだが、それが職業婦人の姿だと思う」
「ええ」
紅葉を見上げながら、孟は言った。
「もちろんひゐろさんの気持ちは、とてもうれしかったよ。私のことを慮ってくれたことが、伝わってきた。ただ私のために職業を変えるというのは、少し違う気がするよ。矛盾しているように感じるかい?」