[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
「お前さぁ、簡単に言うなよ。何が楽しくて朝から自分のために弁当作らなきゃならないんだよ」
「作ってくれる彼女がいればいいのにね」
「……余計なお世話だよ」
甲斐は立ち上がり、飲んでいたブラックの缶コーヒーを一気に飲み干し、空き缶専用のゴミ箱に捨てた。
「じゃあ俺もう戻るわ」
「え、もう行 黃金期貨 くの?」
「あんまり患者さん待たせたくないから」
甲斐は、すごく患者思いの医療従事者だと思う。
悲しいことに、医療に携わる者の全てが、患者のことを最優先に考えて仕事をしているわけではない。
時には自分の都合を優先してしまう人もいる。
口うるさい患者を避け、悪口を言う人もいる。
でも甲斐は、いつだって患者に対して誠実に対応する。
どんなときでも、決して負の感情は見せない。
甲斐の笑顔には、皆が勇気づけられる。
だから甲斐のことを悪く言う患者もいない。
私は彼の仕事に対する姿勢が好きだ。
さすがに口に出して褒めるようなことはしないけど、いつも見習わないといけないと思っている。
「あ、そういえばお前、今夜暇?青柳と飯食いに行くけど、一緒に行く?」青柳幸汰も同期のメンバーの一人で、職種は臨床検査技師だ。
青柳は甲斐と仲が良く、親しくしている同期の中で唯一の既婚者でもある。
二年前に待望の男の子も誕生し、口を開けば子供の話ばかりする。
一番落ち着いていて、穏やかで、私たち同期の中では頼れる兄貴的な存在の人だ。
「ごめん、今日は遥希の帰り早いから、帰ってご飯作らないと」
「……わかった、じゃあまた今度な」
「うん、また誘って」
甲斐が立ち去った後、入れ替わりのように私にとってもう一人の親友でもある桜崎蘭が休憩室に入ってきた。
「疲れた……マジふざけんな色ボケジジィ」
「蘭、顔怖いよ。何かあったの?」
「年寄りの患者にお尻触られた。もちろんひっぱたいてやったけど」
蘭は席に座るなりお弁当を広げ、怖い顔のまま箸を進めていく。
彼女も同期の一人で、看護師として働いている。
蘭とは専門学校在学中に知り合い、学科は違ったけれど共通の友人がいたため親しくなった。
サバサバしていてかなり勝ち気な性格だけれど、裏表がないから付き合いやすい。
本音を言い合える大切な親友だ。「そういえば今ここに来る途中、甲斐とすれ違ったわ。アイツ、さっきまでここにいたの?」
「少しだけね。今日は忙しくて休憩もちゃんと取れないみたい」
「相変わらず仕事に熱心だよねー要領よく休めばいいのに」
「でも私は……甲斐のああいう所は尊敬するけどな」
「それなら、甲斐と付き合っちゃえばいいのに」
蘭が平然と投げかけた言葉を聞いて、私は思わず飲んでいたお茶を吹き出してしまった。
「ちょっと、変なこと言わないでよ……」
「だってあんたたち、仲良いじゃん」
普段の私と甲斐の様子を見たら、誰が見ても仲が良いと言うと思う。
気が合うから自然と共に時間を過ごすことが多くなる。
でもそれは、ただ単に気が合う友達だというだけ。
この友情が恋に変わることは、絶対にないと言いきれてしまう。
「知らないの?甲斐、結構人気あるみたいよ。この間患者さんが、甲斐のことイケメンだって騒いでたし」
確かに、甲斐は整った顔立ちをしている。
目は二重で、男のくせに笑うと女子よりも可愛かったりする。
ポジティブな性格のせいか、一見軽そうに見られがちだけれど、本当は何に対しても誠実で筋が通っている男だ。それなのに、甲斐には長い間恋人がいない。
一緒にこの病院で働き始めてからは、甲斐から恋人がいるなんて話は一度も聞いたことがない。
もしかしたら私や蘭には言っていないだけで、実は隠している恋人の存在がいるのだろうか。
いや、でも……甲斐は嘘をつけない性格だから、秘密の恋人がいる可能性はゼロに近いはずだ。
「甲斐ってさ、どうして彼女出来ないんだろうね。恋愛とか、興味ないのかな」
「さぁね。意外と理想が高いんじゃない?」
「あり得るね」
「それか、もしくは……」
蘭はそこまで口にして言葉を止め、上目遣いで私をじっと見つめた。
「何?」
「や、何でもない。ていうか、そんなに気になるなら、あんたが付き合ってあげなって」
「だから……何度も言わないでよ。無理に決まってるでしょ。そもそも私は甲斐と違って、フリーじゃないんだから」
そう。
私には、既に六年近く交際している恋人がいるのだ。
桐生遥希、私の二つ年下の二十五歳。
彼とは四年前から同棲している。
私は毎日ほぼ定時上がりだけれど、彼はシステムエンジニアのため、帰宅は夜遅くなることが多い。
だから一緒に暮らしていても、ゆっくり話せる時間はなかなか取れない。
なんか持ってもらって申し訳ないな~と思いながら、唯由はキャリーバッグを引っ張ってくれる蓮太郎の横を歩いていた。
「一泊だよな?
なんでこんなにいっぱい荷物があるんだ?」
「あ、えっと。
移動中とか夜やろうかと思って、世界公民 ゲームとかトランプとか持ってきたんです」
「学生か」
と蓮太郎に言われたが、
いやいや、話が途切れて緊張しないようにですよ、と唯由は思っていた。
「ゲームって、まさか、叩いて殴って、じゃんけんぽんじゃないだろうな」
唯由は、ははは、と笑って言う。
「やだな~。
叩いてかぶって、じゃんけんぽんですよ~」
「……いや、お前が言ったんだよな」
そうでしたっけね? と思いながら唯由は淡いイエローのキャリバーグを見て言った。
「ハリセンは入ってないですよ。
まあ、ハリセンも兜も現地で作れますけど。
あれ、盛り上がりますよね~」
「そういう盛り上がりは男女の旅行には不必要だと思うが……」
「そうなんですかね?
楽しいのはいいことだと思いますが。
楽しい記憶が多い方が、きっと、この旅行、いい思い出になりますよ」
と笑うと、蓮太郎はちょっと照れたように、
「……そうだな」
と言う。 人の行き交う新幹線の改札口を見ながら唯由は言った。
「そういえば、叩いてかぶって、じゃんけんぽん。
月子が好きなんですよね~」
「いや……たぶん、好きじゃないと思うぞ」
キャリーバッグを手に短い階段を上がりながら、何故か蓮太郎はそう言ってきた。
会社の話をしているうちに駅について、新幹線は降りた。
そこから普通の電車に乗り換える。
最初は結構ぎゅうぎゅうに人がいたのだが、街中を外れると、やはり空いてきた。
窓の外には、長閑な田園風景が広がっているが。
何処の田園風景もちょっと似ていて、懐かしい感じがする。
がらんとした電車の長い座席に二人並んで座っていた。
短いトンネルを通ったとき、窓ガラスに自分と蓮太郎が見えて。
唯由は、人から見たら、私たち、どんな風に見えているのかなあと思う。
まさか、コンパ、
それも、別々に開催されたコンパに行って。
なんとなく合流して。
王様ゲームで指名されて。
愛人のフリをすることになって。
今、ふたりで横並びに電車に乗っている人たちだ、とは思わないだろうな。
そんなことを考えて、ふいに黙った唯由に蓮太郎が訊いてくる。
「どうしたんだ?」「いえ。
雪村さんと出会ってから今までのことが走馬灯のようによぎりまして」
「短い走馬灯だな」
と言ったあとで、蓮太郎は、
「まだ旅行はこれからなんだ、死ぬなよ」
と言う。
死ぬなよ、と言うわりには、淡々とした口調に、ああ、雪村さんだなあ、と思って笑ってしまう。
「外は暑そうだな」
何処までも続く田んぼを見ながら蓮太郎が言った。
田んぼのど真ん中の道を自転車で走っている女子高生がいる。
休日なのに、制服のスカートをひるがえして走っている彼女は部活の帰りなのか、模試の帰りなのか。
なんにせよ、暑そうだ、と思った唯由は、
「そういえば、ハンディファン持ってきましたよ」
とゴソゴソ鞄から雑誌の付録の可愛いミニ扇風機を出してきた。「こういうのって涼しいのか?」
「結構涼しいんですよ」
唯由はミニ扇風機のスイッチを入れた。
蓮太郎に渡そうとして、蓮太郎の手に指先が触れる。
その手の体温を感じただけで、どきりとして、手を離してしまった。
可愛いキャラクターのついたミニ扇風機がふっ飛んでいきかけ、慌ててつかむ。
「い、生きてますね、この扇風機……」
蓮太郎の手に触れただけで動揺してしまったことを誤魔化すように唯由は言った。
「……生きてるな、この扇風機」
と蓮太郎も認める。
指が触れたとき、蓮太郎もビクッとして手を離したように見えたので、それでだろう。
扇風機をつかんだまま、唯由は黙り、蓮太郎も黙った。
向かいの席に座っていた幼い男の子だけが、
「ママー、あの扇風機、生きてるんだってー」
とこちらを指差し言って、しっ、と苦笑いしているママに言われていた。
宿のチェックインまで時間があるので、唯由たちは近くのテーマパークに立ち寄っていた。
少し眺めて食事でもして時間を潰そうと思ったのだ。
しばらくすると、大野美菜から電話がかかってきた。
「蓮形寺~。
ラブラブデートはどんな感じ~」
我々は仕事よ~という美菜は社食が閉まっているので、同じく出勤してきていた道馬たちとランチに来ているのだと言う。
「今、お蕎麦を食べて。
町娘になって、散策しています」
「……あんた何処に行ってんの?」
唯由たちは江戸の町を模したテーマパークに来ていたのだ。
「えーっ。
いいなあ。
私もお姫様とかになりたい~。
雪村ヤンバルクイナもなんか仮装してんの?」
「雪村さんは、かぶき者の格好しています」
「それ仮装じゃないじゃん。
あいつ、普段から生きざまが、かぶいてんじゃん」
確かに、と笑って電話を切る。
駅には宿からの迎えの車が来ていた。
見晴らしのいい山の宿に着くと、従業員たちがずらりと並んで出迎えてくれる。
「唯由」
と女将のが出てきたので、唯由は慌てて蓮太郎に小声で言った。
「あの、おばさんのことは、保子さんでお願いしますね。
おばさんとか言うと、はっ倒されると思うんで」
「はっ倒しゃしないわよ。
まあ、ゆっくりしていきなさいよ」
……聞こえていたようだ。
保子は、ふうん、と蓮太郎を上から下まで眺めたあとで言う。
「あんた、こんないい男でいいの?
お母さんみたいに浮気されるわよ。
まあ、浮気とかできるほど小器用そうでもないけど。
あんたのお父さんだって、ただただ不器用でやさしい人だったのに、あんなことになっちゃったんだから。
早月さん、なんで、あんな昔の恋人を突き離せないような優柔不断な男を選んじゃったのかしらね。
面倒見のいい人だからかしら」
そ、その優柔不断な男の方があなたの実の弟ですが、保子さん……。
「電話をしようかな、と思いながら歩いていたら、お前のアパートに着いたんだ、奇跡だ」
「いや、此処、来たことありますよね?」
なにも奇跡じゃないのでは?
と唯由は言ったのだが。
「いや、奇跡だ。
俺は極度の方向音痴なんだ。
お前のもとにたどり着けたのは運命だ」
と蓮太郎は主張する。
あのー、と唯由は遠慮がちに訊いてみた。
「今日、singapore stock trading platform たまたまバッタリ出会わなかったら、どうなってたんでしょう?
もういいやで終わりだったんですかね?」
どうもなにもかもが偶然と運任せな気がして。
困っていると言ったわりには、そんなに必要とされてないような。
じゃあ、別に、私、愛人やらなくていいんじゃないですか?
と思いながら訊いてみたのだが。「もういいやになるわけないだろう。
愛人になってくれなんて、普通の人に頼めるわけもない」
……私、普通の人じゃないんですかね?
「王様ゲームという素晴らしい遊びにより、得られた下僕を逃すわけないだろう」
だから、王様ゲームにそんな拘束力はありませんって。
「別に運任せにして放っておいたわけじゃないぞ。
コンパの主催者同士は連絡とりあえるだろうから、そこから訊いてもらえばいいと思ってただけだ」
訳のわからないことを言うわりには、そこは冷静なんですね。
そう唯由が思ったとき、保存容器を片付けながら蓮太郎が言ってきた。
「食べ終わったか?
じゃあ、ちょっとでもデートでもしよう」
なんですか、このタイトなスケジュール。
ちょっとでもデートしようとか。
聞きようによっては情熱的だが。
この人の場合は、たぶん、愛人に仕立てるために、踏まねばならない行程を無理やり詰め込もうとしているだけだ。
「だが、愛人のデートというのがどうもよくわからない。
普通のデートしか検索しても出てこないし。
リラクセーションルームの雑誌にも載ってない。
サスペンスとかだと、殺されたり犯人になったりする愛人と男は大抵、お忍びで旅行に行ってるから、今度、旅行にでも行くか。
まあ、今、なかなか休めないんだが」
……休めなくてよかった、と唯由は思っていた。
「ともかく、いずれ、お前を愛人として親族に紹介したい」
「いや、なんでですか」
「それをしないと意味ないだろう。
俺の女性関係が乱れていることを示すためにお前を雇ってるわけだから」
雇われてはないかと思いますね~。
「……近々、お前のお披露目をせねばな」
そんなお披露目、嫌ですし。
愛人をわざわざ親族に紹介してお披露目するようなきちんとした人は、女性関係は乱れてない、と判断されると思いますね、と唯由は思っていた。
「お前の親兄弟に挨拶しなくていいだろうか」
「……絶対にしなくていいと思いますね」
きちんと育てられすぎて、乱れられないようだ……。
「コーラ、もう一杯いかがですか?」
と唯由は立ち上がる。
「さて、めでたく愛人関係になった俺たちだが」
愛人って、『愛人にするぞ』『そうですか』と言い合っただけでなれるものなんですかね?
お互いのことをまだよく知らないし。
頬にキスした程度なのに。
いや、それ以上のことをされても困るんだが……と唯由が思ったとき、蓮太郎が言ってきた。
「此処らで少し、お互いのことを知り合うべきなんじゃないだろうか」
……王様がずいぶんまともなことを、と思う間もなく、蓮太郎は、
「蓮形寺、スマホを貸せ」
と言う。「いや、何故ですか」
「別にお前の秘密を探ろうとか、プライベートにズカズカ踏み込もうというわけではない」
それはありがたいですが。
愛人の秘密を放置し、プライベートはどうでもいいって言うのも問題あるような……、
と思い見つめる唯由に、蓮太郎は言う。
「リラクゼーションルームの雑誌に書いてあったんだ。
スマホの予測変換でその人間の人となりがわかると」
「あー、まあ、よく使う単語はわかりますよね」
いいですよ、と唯由はロックを外し、スマホを渡した。
「……あっさりだな」
「人に見られても特になにもないので。
私もちょっと興味ありますしね。
自分のスマホの予測変換。
注意して見たことないので」「そうか。
ああ、先にお前のを見たら悪いな。
俺のを見せてやろう」
「結構です」
「何故だ。
見せてやろう」
「結構です」
「俺に興味がないのか」
「結構です」
見せてやる、と望んでもいないのに、蓮太郎はスマホで予測変換を見せてくれる。
だが、仕事で思いついたことをメモに書き溜めているらしく。
そのせいか、仕事関係の小難しい単語ばかり候補に出てくる。
「……面白くないです」
スマホの画面を見ながら、唯由は眉をひそめた。
「俺という人間が面白くないと言うのかっ」
「いや、スマホの変換がですよ」
っていうか、意外に真面目な人なんだな、というのはよくわかりました、と唯由は思っていた。
「お花、買って来ますね」
楽が和室から顔を覗かせ、言った。
「お祖母様とお母様が好きだったお菓子とか果物、わかりますか?」
「……敬語、やだ」
二人のことを思い出すと、今も苛立つ。
『悠久には、父親のことを知る権利があるんだから』
亡くなる直前、ばあちゃんは母さんに言った。
『いつまでも、悠久をこの家に閉じ込めていてはいけないよ』
俺がこの家を出て行く羽目になった元凶は、ばあちゃんだ。
ばあちゃんがあんなことを言わなければ、母さんが俺を父親に渡したりしなかったはずだ。
「悠久さん?」证券公司
楽が、ソファの、俺の足元に跪く。
「お仏壇に上げるお菓子は何がいい……?」
楽の穏やかな表情を見たら、脳裏にばあちゃんと母さんの姿が浮かんだ。
いつも俺が学校から帰ると、二人でドラマの再放送を見ながらお茶を飲んでいた。
「ばあちゃんはかりんとうが好きだった」
歯を悪くして硬いかりんとうを噛み砕けなくなったばあちゃんは、いつもかりんとうを咥えて舐めていた。
「お母様は?」
「……バタークッキー」
俺はよく「二人していっつも同じもんばっか食って」と呆れていた。
「悠久さんの好きなお菓子は?」
「……芋けんぴ」
笑われるの覚悟で、言った。
もっとも、好きでよく食べていたのはばあちゃんが生きていた頃までで、もう十年くらい食べていない。
「買って来るね」
楽は笑わなかった。
萌花なら絶対、笑う。「なにそれ?」とか言って、鼻で笑う。
楽は立ち上がり、エプロンを外した。
「今日のご飯は何がいいですか?」
ちょうど俺の目線でエプロンを丸める彼女の手を、握った。ギュッとはいかなかったが、今の俺の精一杯の力で、握った。
「……楽は何が好き?」
「私……は……」
彼女の手を、見ていた。
見上げる勇気は、ない。
「胡桃ゆべしが好きです」
俺の方が笑ってしまった。
「俺ら、渋過ぎじゃね?」
「本当ですね」と、楽も笑った。
「全部、買って来てくんない?」
「え?」
「かりんとうとバタークッキーと、芋けんぴと胡桃ゆべし。一緒に、食べよう」
「……はい」
今日は、寂しくなかった。
楽が買い物に行っている間、足を引きずって和室に行き、綺麗に磨かれた仏壇の前に座った。左足を折り、右足を仏壇に向けて投げ出す格好で。ばあちゃんが見たら怒るだろうけど、仕方がない。
「ただいま」
仏壇に飾られた二人の写真を眺めながら、随分と遅い帰宅の挨拶をする。
二人の遺影は、ばあちゃんが死ぬ一年くらい前に撮ったもので、俺の大学入学の時のもの。
二人がどうしてもと言って、お洒落をして俺が入学式から帰るのを待っていた。ダイニングテーブルにデジカメを置いて、タイマーで撮った三人の写真。
カットされているが、二人の間には俺が写っていた。
ゴソゴソと段ボールを漁り、元の写真を探す。アルバムと段ボールに挟まれて、それはあった。 母さんの遺影に使った後、段ボールに放り投げたその写真中の俺は、ばあちゃんと母さんの間で、照れ臭そうに笑っている。
「どうして俺を手放したんだよ……」
わかっていて、聞いた。
わかっているから、聞いた。
答えてくれたら、「それは違う」と言えるのに……。
カラカラカラと玄関ドアが開く音と、ガサガサッとプラスチックやナイロンの擦れる音。
俺は慌てて、目を擦った。
涙は出ていない。ただ、そんな気がしただけだ。
「帰りました」
「おかえり」
いつものように、冷蔵庫に買ったものを入れて行く。
今日は、昼飯と晩飯をリクエストしなかった。何を作ってくれるのだろう、と楽しみになった。
食材を冷蔵庫に入れ終わると、楽が買って来たかりんとうとバタークッキー、花を仏壇に置いて、俺の隣に座った。
「ずっと座っていたんですか?」
「え?」
「足、辛くないですか?」
正直、曲げている左足が痺れて、動くに動けなくなっていた。痺れをほぐそうと左手で擦っていたからか、楽はすぐに気が付いてくれた。
「足、伸ばしましょう」
段ボールの下敷きになっていた木製の座椅子を引っ張り出し、座るように言った。旅館なんかにある、低い背もたれのついたものだ。
とは言っても自分では動けないから、俺が尻を浮かせた隙間に、楽が座椅子を差し込んでくれた。
「足、動かしますね」
楽が俺の左太ももを持ち上げ、ゆっくりと膝を立て、伸ばして下ろした。
「ありがとう」
「いえ」
緋沙はホッとしたように微笑んだ。
「…」
牙蔵は一礼すると、期指結算 また音もなく出て行ったのだった。
詩は茶を淹れ、信継がくれた干し柿をゆっくりかじっていた。
白い粉をふいて、ほんのり甘くて、とても美味しい。
信継の笑顔が浮かぶ。
「ふふ」
ーーそういえば、あれから牙蔵さんを見てないな…
詩は何となく寂しく思った。
ーー任務が…大変なのかな…
あの夜。
血まみれの牙蔵を見た記憶が蘇る。
ゾクッと背筋が震えた。
ぶんぶんと首を振る。
ーー牙蔵さんは…優しい人だ。
すぐ…また会えるよね…
牙蔵は詩の”離れ”の近くで伊場と会う。
「近く、あれを城から連れ出す。
それまではお前に頼む」
「はっ」
「…」
空から舞うように粉雪が降り出す。
牙蔵は昏い視線を詩のいる”離れ”に向けた。
”離れ”からはまだ明かりが漏れている。
「…」
伊場はそんな牙蔵の顔から目を逸らせずにいた。
「何?」
「はっ…いえ」
伊場は珍しくイライラしたような牙蔵の声に目を伏せた。
空からは次々に粉雪が舞い下りて、地面を白く染めていく。
牙蔵はまた雪の中、姿を消したのだった。「はあ…」
詩は、冷たくかじかむ手に息を拭きかける。
あれから数日。
朝に晩にーー信継は優しく声を掛けに来てくれる。
忙しいようで、ゆっくり話す時間はない。
きっと護衛をしてくれている、牙蔵のことはあれから一度も見ていなかった。
いつの間にか年の瀬もすぐそこまでせまり、正月の準備でここのところ城中がなんだか賑やかで慌ただしい。
毎日女中や家臣たちが大掃除に精を出している。
城中が、正月準備に余念がない。
詩も自分の”離れ”を掃除していた。
”離れ”は、もともと手入れされていて、汚れもなくきれいなのだが、年の瀬となると三鷹を思い出して詩もソワソワしてしまうのだ。
障子を張り替えたり、すすを払ったりーー
幼い頃から三鷹で見て来たことを懐かしく思い出す。
来たる新年がいい年になるよう、願いを込めて…全員で協力して…
どの顔も、笑顔で…
雑巾を硬く絞り、隅々まで拭き上げていく。
さっぱりとして気持ちよく、詩は微笑む。
「桜、こんにちは」
その時聞こえた、控えめな声ーー詩が振り返る。
仁丸が、”離れ”の入り口に立っていた。
「仁丸様…こんにちは」
詩は手を止め、雑巾を置くと仁丸にお辞儀した。
2人きりで会うのは、あの日以来だ。
詩はどこか緊張して、手をキュッと握る。
仁丸はふ、と困ったように微笑んだ。
「今、大丈夫ですか?
…少し、話せますか」
「…はい、大丈夫です」
詩が襖を開けると、仁丸が言う。
「少々寒いですが、外を歩きましょう」
「…はい」
羽織を着て、2人で中庭に出る。
少し先を歩いて行く仁丸の後をついていく。
詩はその背中を見上げた。
少し、仁丸の背が伸びた気がした。
雪が降ったり止んだりが続いたこの数日。
積もった雪はかいてあって、道は歩きやすくなっている。
仁丸が立ち止まり、詩も立ち止まった。
「…桜」
仁丸が振り返る。
詩は思わずビクッとしてしまう。
仁丸が困ったように微笑んだ。
「…ずっと謝りたかったんです。
あの時は本当に…申し訳ありませんでした」
「…っ」
「自分の中にあんなーー
獣のような心があった」
「…」
「僕はまだ…女子というものを知らない」
「…」
「とはいえ、桜を傷つけて、本当に申し訳ありませんでした」
「…」
詩は、胸が詰まって、何も言えなかった。
仁丸はふと空を見上げた。
「ああ。やっと言えました」
それからふわっと詩を見下ろして、微笑む。
「…僕は桜が好きです。
それはこれからも変わることはない」
「…」
仁丸は優しい目で詩を見つめた。
「でも、桜
あなたは自由です。
この意味がわかりますか」