「付きの者が、お濃は体調を崩して臥せっておると。 なれど、如何にも何かを隠していような風情であった故、少々気になりまして」
「左様でしたか……。 畏れながら、お濃殿が臥せっておられるという話は本当です」
「お濃にいったい何があったのです!?」
そう言って、信長が一歩足を踏み出すと、報春院は思わず顔をしかめた。
未だ甲冑姿の信長は、戦地から戻って来た武士独特の異臭を全身から放っていた。
端麗な面差しも、泥や敵勢の血ですっかり汚れ、双の手も灰を掴んだように真っ黒である。
「それをお話しする前に、そなた様は一旦居室へ戻り、湯あみをなさる方がよろしかろう。清潔な衣装に着替えられたら、改めて奥御殿へお出でなされませ。私の部屋にてお話を致します故」
「そのような暇はありませぬ!残る敵勢の動きを窺い、また討ち取りし今川兵らの首を検めて──…」
「信長殿!」韓國衛衣
報春院は息子の面差しをひと睨みした。
「例え夫であろうとも、婦女の病室に、敵勢の血へどが付いたような、禍々しき身形(みなり)で立ち入ることはまかりならぬ!」
着替えてお出でなされませ、と再度強い口調で促すと
「元より、今のそなた様のように、気が昂ぶっている者に申し上げられるような話ではございませぬ…。 一度出直して参られた方がよろしかろう」
報春院は表情を和らげ、諭すように告げた。
信長は一瞬 鼻白んだが、母の言葉の裏に潜む、何か大きな問題を感じ取ったのだろう。
ややあって信長は
「……分かり申した…」
と妥協混じりに呟くと、複雑そうに顔を歪めながら静かに踵を返すのだった。
信長が奥御殿の濃姫のもとを訪れたのは、それから一刻(約2時間)以上も経ってのことだった。
足に鉛でも埋め込んでいるような、重々しい足取りで姫の寝室の前にやって来た信長を
「こ、これは殿!」
入口近くに控えていた三保野が、慌てた様子で出迎える。
ここへ来る前に、報春院の部屋へ立ち寄ったであろう信長の顔には、濃い疲労の色が浮かんでいた。
今川との戦で大勝利を治めた、その中枢の人物とは思えぬほどに、覇気がなく、目はぼんやりと虚ろであった。
彼はその虚ろな目で、垂れ下がっている三保野の頭を見据えると
「…姫に…会いに参った…。取り次ぐのじゃ」
抑揚のない声で告げた。
「しかし、あの──姫様は…」
「狼狽える必要はない。先ほど母上から “ 何もかも ” を伺ったところじゃ」
その言葉に、三保野はハッとなって顔を上げると「…さ、左様にございましたか」と呟いた後
「しかしながら、…今の姫様は、殿とまともにお話しが出来るような状態ではないかと」
几帳の立てられた部屋の奥の様子を窺いながら、申し訳なさそうに述べた。
それに信長は、ゆっくりと首肯を返す。
「さもあろう……。なれど、会いたいのじゃ。…会わねばならぬ」
「──」
三保野は、信長の悄々とした様子を仰ぎ見ると、暫し考えを廻らせた後
「…ならば…、どうぞ中へ」
相手の気持ちを推し量り、入口の前から静かに退いた。
「なれど、決して姫様をお責め下さいませぬよう、お願い申し上げます」
「…分かっておる。それについては、母上からも厳しゅう言われた故」
信長は目で頷くと、畳を擦るような小さな足音を立てながら、黙って寝室の中へ入っていった。