桂の腕から逃れられず三津の心臓は落ち着かない。
心配してくれてるのか,動揺してるのを分かって反応を楽しんでいるのか。
『あり得る…。私が慌てふためくのを見てからかう気や。』
勝手にそうだと思い込んで,頭皮濕疹 取り乱すもんか,平然と顔を上げよう。
決意を固め大きく息を吸って上を向こうとした時,桂が肩に顔を押し当ててきた。
「あの,桂さん?」
決意も虚しく桂の予想外の行動に頭の中は真っ白になりつつある。
「私も忘れられないと言われるぐらい誰かに愛されてみたいもんだ。」
桂の声が肩を通して体中に響き渡る。
これもからかっているから出た言葉なのか。
突拍子もない台詞にぽかんとしてしまう。
桂のような男ならそう思う女性は大勢いるだろうに。
そんな色男に抱きすくめられた状態で平常心を保つなんてはなから無理なんだ。心臓が尋常じゃなく早鐘を打っている。
このまま一生分の脈を打って止まってしまいそう。
桂の腕にすっぽりと収まったまま,肩には顔を埋められたまま,動けない。
河原で号泣して慰めに抱き締められて,あり得ないほど長々と密着している自分の姿を客観的に想像してしまった。
『桂さんに顔向けられへんわ…。』
今すぐに桂を突き飛ばしてでも走って逃げ出したい。
「あ!桂さん,あの簪は私にはもったいないですよ!」
逃げる事は叶わないからせめて話しを逸らして空気を変えてしまおうと考えた。
「そう?似合うと思うけど。」
桂の腕が緩み三津の望み通り体を引き剥がすのには成功したが,
「簪が目に留まった時に君の顔が浮かんだから間違いなく似合うよ。」
桂は三津の顎に手を添えて顔を持ち上げ,まじまじと覗き込んでくる。
『この顔を見られたくなかったのに…。』
目を合わせるのは無理だと伏し目がちにしていると優しい感触が頬を撫でた。
桂の親指の腹が涙の筋をそっと消してくれていた。
『また喉を鳴らして笑われるかと思ったのに。』
三津は瞼を閉じてじっと拭い終わるのを待った。
『男の前で目を閉じるこの警戒心のなさときたら…。』
呆れつつも頬に張り付いた髪も手櫛で整えてやった。
『私が男として見られてないのかな?』
そう思うとちょっと悔しくて,目の前の鼻をぎゅっと摘まんだ。
「んっ!いきなり何ですか!」
優しくされたかと思えばまたからかわれて,三津の顔はその度に忙しく表情を変える。
「寝ちゃいそうだったから。」
桂は悪びれた様子もなく無邪気に笑って,仕上げに手拭いで涙を全て拭き取った。
「こんなに泣かせてしまって,ご主人と女将に怒られてしまうね。
一緒に帰って謝るよ。」
「勝手に大泣きしたのは私ですから!」
桂が謝るなんてとんでもない,それだけは止めてくれと必死に訴えた。
「ホンマに謝る必要はないですから!
でも……お願いがあるんです。」
三津が申し訳なさそうに眉を八の字にしたから,何だろと桂の首は傾いた。
「迷惑かけっぱなしでこんなんお願いするのもどうかと思うんですけど。」
申し訳ない気持ちと自分ではどうしようも出来ない情けなさから大きな溜め息を一つ。
「途中まで連れて帰って下さい。」
また泣きそうだ。三津にとって途轍もなく長い一日だった。
「店番するより疲れた…。」
ぐったりと布団の上にうつ伏せた。
あれから桂に甘味屋の近くまで送ってもらった。
どの道なら分かるんだいと道中ずっと笑われっぱなしだった。
そして送ってくれと言い出しておいて,誰かに見られてると恥ずかしいから途中で桂を追い返してしまった。
大泣きして腫れた顔を晒しながら歩くだけでも恥ずかしいのに桂と一緒の所を見られる訳にはいかない。
『我ながらとことん失礼な奴やな。』
ふっと自嘲気味な笑みを浮かべた。
けれど桂はそんな自分に嫌な顔一つせず最後まで付き合ってくれた。
それが何よりも嬉しかった。
抱き締められた感覚を思い出せば顔がふやける。
「三津,起きてるか?」
障子の向こう側からトキの声がして,にやけた顔を慌てて引き締めた。
「何?どしたん?」
平静を装って障子を開けた。
トキは障子が開くや否や難しい顔で三津の顔をぺたぺたと触った。
「何よ,変な顔を笑いに来たん?」
若干腫れぼったさの残る目をより細めて笑った。
「…無理に笑わんとってくれるか?余計に責任感じるねんけど。」
「何に責任なんて感じるんよ,嫌やなぁ。私の泣き虫は今に始まった事ちゃうやん。」
けらけら笑ってトキの肩を叩いた。